昭和49年生まれ(男)
 4年生まで、木造校舎にて授業をうけていましたが、一番記憶に残っているのは王滝地震です。校庭に生徒が避難してザワついている光景は今でも覚えています。あの揺れと、恐怖は今でも忘れる事は出来ません。
校庭 校庭

昭和48年生まれ(女)
 在学中に校舎が新築され、新校舎がピカピカで嬉しかった事を覚えています。
校舎 校舎

昭和42年生まれ(男)
 私が、小学校卒業するまでは、今の校舎ではなく古い校舎でした。中学1年のころに小学校の校舎が新築されて「うらやましいなぁ」と思いました。しかし今の校舎も築24〜25年位たつのですね!時の流れは早いものです。今は息子、2人が通っています。
 私の小学校の思い出はいろいろあるのですが、夏休みにプールで泳いだ後、友達数人で校舎のすぐ近くの川で泳いだ事です。当時、今の川の様に浅くなく深い場所もあり、飛びこみも出来るくらいでした。もりを持ってきて魚をつき、焼いて食べたりして結構楽しかったです。
 校舎の遊具の中で、思い出に残っているのは現在はないみたいで(あるのかな?)私のころは、丸太で作られたジャンプ台がありよくそこへ行ってジャンプした覚えがありますね。小学校3年か4年ごろに作られていて最初は恐くて飛べなかったことがあり飛べた時はうれしくて、何回も飛んだ事が思い出深いですね!
木曽川 木曽川

昭和42年生まれ(男)
 私の思い出は、学校の裏山がスキーのゲレンデになっていたことです。体育の授業になると学校のゲレンデで滑ったことを覚えています。ただし現在のようにゲレンデ整備されていませんでしたから、ときには怪我をして病院へいく人が何人もいたことを覚えています。そんな状態でしたから早々にゲレンデは使用されなくなりましたが、小学校にホームゲレンデがあったことが私の思い出であり、今でも自慢話の一つです。
裏山 裏山

昭和37年生まれ(男)
 冬の雪の積った校庭でみんなでサッカーをしたことが、とても楽しい思い出として残っています。男子も女子もいっしょになり、雪の上をかけまわり、普通の校庭でやるよりも大変だったと思うんですが、ひまがあればやっていた気がします。
 冬は裏山でスキーをしたり、寒かったですがいろいろ楽しいことがありました。            

昭和37年生まれ(男)
 うら山にスキー場ができ(確かPTAが整地してくれたと記憶しています)、体育の時間や放課後、休みの日に楽しく友達と滑りました。リフトなどはもちろんなかったので、一回一回登っては降りてきました。
 そのころ札幌オリンピックでジャンプが日本1・2・3位を独占し、まねごとでジャンプ台を作り、ミニスキーでそうとうむちゃな遊びもしました。

昭和37年生まれ(男)
 あまり勉強はしなかった気がします。いつもみんなで遊んでいて、スクールバスに遅れて、歩いて帰宅していました。
 五年生の時、小木曽分校と本校が合併したのが大きな変かくでした。

昭和36年生まれ (男)
 私がいた頃の校舎は、今の校舎とは違い木造の古いサッシも入っていない建物でした。冬になるとすき間から風が入ってきて、とても寒い思いをしたものでした。ストーブも、石油ストーブではなく、石炭を使った「だるまストーブ」でした。
 給食もランチルームではなく、教室で食べたため、給食室から当番が教室まで運びました。低学年の頃は、運ぶ物が重く教室まで行くには長い渡りろうかがあった事。やっとの思いで運んだものでした。
長ろうか 長ろうか

昭和34年生まれ  (男)
 木祖小学校のうら山は昔、とても楽しい遊び場でした。
 冬はスキー場になっていて毎日のように体育の授業でスキーを楽しみました。春になると畑にたくさんのいちごが作られていて休み時間にちょっともらって食べました。夏は山の奥まで探険に行って水晶をほりました。今はあまり見つからないけど、親指ぐらいの大きさのとう明な水晶を見つけることができました。秋はあけびがどっさりできて、放課後みんなでとりに行きました。昔のくらろう橋は木のつり橋で、ロープをつたって遊ぶのがとても楽しかったけれど、いつも先生におこられてしまいました。低学年のころはまだプールがなかったので、PTAのみなさんが石を積んで川をせき止めてくれて、そこで泳ぎました。上流に向かってどこまで泳いで行けるかがみんなの力の競い場でした。今に比べると、色々整備されてなかったけど
楽しい学校でした。                                   
水晶谷
水晶谷
畑

昭和33年生まれ(男)
 小木曽分校は校庭から校舎に登る大きな長いコンクリートの階段がありました。階段のわきには手すりがついていて、またがってすべりおりた記憶があります。校庭のわきにはポプラの木があり、よくトチカンジョがつきました。校舎はぐるりと一周できるようになっていて、中庭もありました。北側の建物が教室で、東側がトイレ、職員室のあった南側の校舎はとても古く、廊下や柱が黒光りしていたように思います。西側は昇降口と隣に給食室がありました。小木曽分校の裏山でもスキーをしました。
小木曽分校 小木曽分校

昭和32年生まれ  (男)
 校庭の横の畑でスキーの授業をしました。プールができる前は、木曽川で泳ぎました。夏休み中は家のそばの川で水遊びをしました。川をせき止めて少し深くして、水温が低いと赤い旗が立てられて水泳は禁止でした。魚をとったり、火をたいたり楽しかったです。
木曽川 木曽川

昭和31生まれ  (男)
 昭和30〜50年ころのくらろう橋は今の橋より下流側にあり、ワイヤーロープと木でできたつり橋でした。人が歩くだけだったように思います。昭和37年ころだったか、台風か大雨で橋の床のすぐ下20p位のところまで水位が上がり集団下校になった事があります。橋の真ん中をみんなで恐々渡ってきたと記憶しています。
 それから今のプールが昭和41年に出来たのですが、今のランチルームの北西の角のあたりにわき水があって、体育の後などに飲んだりした水をプールの給水にと、つぶされてしまい残念に思いました。とてもうまい水でした。
倉ろう橋
倉ろう橋
湧き水
今はコンクリートから出ています

昭和27年生まれ  (男)
 小学校一番の思い出は、シラミ駆除のために女の子と男の子の坊主頭の子以外は頭にDDTをかけられ日本手ぬぐいを頭に覆って学校に通ったことです。                        

昭和17年生まれ  (女)
 私が小学校へ入学した年は昭和25年でした。場所は現在の旧保育園と転作センターが建っている所でした。とても古い校舎で太い丸太でつっかい棒をしてあった事を記憶しております。
 四年生の頃、今の場所へ移る事になり校舎の中にある物を(いすなど)必ず一つ手に持って学校の生徒全員が一列に並んで運んで行った事を思い出します。その後、再び校舎が建築され、現在に至っています。
 今は孫がお世話になっております。

昭和15年生まれ  (女)
 私の通った小学校は、今の転作センターの所にありました。教室の天上はシミだらけ窓ガラスが無くてボール紙を当ててある様な校舎でした。
 低学年の頃は食べる物も無く着る物も無く母親の帯をほどいてカバンを作ってもらったり、わらぞうりをはいて、4qの道のりを道草しながら歩いて学校に通いました。そのうちにくつも配給制になり遠くから通っている人からくじを引いたものです。
 食べる物も無い時代でしたが、私の家は田んぼを作って居りましたので弁当は毎日の様に自分の顔ほどもある味噌むすびでした。
百姓もなく子供が多勢の家は弁当を持って来る事が出来ず昼食を家で食べに行ったものです。今でも同級会の折にはあの味噌むすびのうらやましかった事が忘れられないと今でも言われます。                

昭和12年生まれ  (男)
 私の父親は昭和19年33才の若さで戦死しました。そんな中で母親は、4人の子供、馬一頭、蚕は春蚕、秋蚕、年二回飼いました。
 小学校時代、当時田耕しも「万のくわ」と言う道具で田を起こし、しろかきは、馬に「ハーロ」と言う道具を使って稲作をしました。母親の苦労している姿は、忘れることができません。
 学校では食料が無いと言う事で小木曽分教場の庭にさつまいも、大豆などを作って勉強どころではない時もありました。私達は当時、着物も今とは比べものにならない着物、時には、頭、体にシラミをわかして、BHCと言う薬を体、頭に着けて退治した時もありました。
 戦争の最中には学校の物置に油を作る材料と言う事で、栗のイガを集めておいた事もありました。また、終戦時の教科書はその内容によりスミでぬりつぶして使用しました。
 小学校5年位からは弁当は自分で作りました。作ると言っても、弁当箱にご飯を入れてその上にきゅうり、またはなすのつけ物そのまま一本入れて終わりです。
 また、当時は赤痢と言う病気が流行して学校も隔離痛棟化した時もありました。
小木曽分教場 小木曽分教場

大正15年生まれ (男)
 今使われなくなった保育園、転作センター一帯が薮原尋常高等小学校と言われていたと思います。
 小学校一年生の時は大きな台風があって校庭の隅にあった柳の大木がたおれたり、親せきの家の土蔵の屋根が風でめくられてとなりの家の庭に落ちたことがありました。
 小学校一年生の時お祭りの屋台に休み時間に乗りこんでしまい学校にきていた事を忘れて同級生が探しにきて先生にしかられた事がありました。
 六年生の時修学旅行で宇治山田の大きな二見館にとまって夜、まくらを投げ合ってさわいで楽しかったです。列車の中で鉄道唱歌を薮原の名やお六ぐし等々、各駅ごと大声で唱ったものでした。

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